男とか女とか、その性別に「らしさ」を求めることの押し付けがましさを鬱陶しく思って否定的な声をあげる人が、インターネットをやってると目立っているなあと思う。

たしかに、一定の異性が「お前らはこうあるべきだ、こうしろ、俺たち私たちのために」と押し付けているとしたらそれはなんのための授かった性なのか。とは考えさせられるものがある。

私自身、男にはこうあって欲しい・女にはこうあって欲しいという感情は正直ある。けれどもそこには共通する部分もあって、それは礼儀だったりマナーだったりして、そうではない「男らしさと女らしさ」というものを私はもう少し大事にすべきではなかろうかと思うのである。

こうあるべきだ、というわけではなく、望むのならば。願わくば。という気持ちだ。自分の授かった性に、授けられた理由も意味も原因も無に等しくて、もちろん中には同性しか愛せない性同一性障害を持つものもいる。そういう人でも、たとえ整形して肉体が変わっても、自分が持っていた部分には愛着がある人も中にはいて、例えば自分の切り取った男性器を保存していたり。そういうのを聞くと、自分の授かった性を愛することは自分自身への愛情に直結するのかもしれない。

私自身昔はなぜ女に生まれたのか、男だったら友達ももっとできたんじゃないのか、男と嫌な思い出を作らずに済んだかもしれないのになんてことを考えたりもした。同性を恋愛対象にできたらいいのかもしれない、なんてことを考える時もあったが結局恋愛対象が変わっても性別を変えられたとしても私は私のままなのである。早い話、住む家を変えれば暮らしが変わるかというと、変える努力無しに変えることは不可能なのだ。

私は、自分がどうあがいても、どんなに男に「女友達作るの向いてないね」と言われようと、やはり女であるし、女であるというのはつまりどうあがいても私は女以外の何者でもないんだということ。女を出すとか、女であることを利用するだとか、そういうことを求められてしまうしそれが手段として優れてしまってる社会がおかしいんであって、そういうことに関しては女は「私たちは娼婦じゃない」と声を大にすべきなんだろう、女が娼婦である時代はもう終わったし、終わらせないといけないし。

私は女だから女のことしか理解できないので、残念ながら男について書けることがないのが悔しいところ。でもそれは私が女を愛してるし可愛いと思ってるからで、男の人も男という性に愛情を持てたらなんか変わるんじゃないかなぁ。

なんてことを暇な時間に考えていた。

なんせこういう話は超デリケート。カッとなりやすい問題だし、話し合いをする余地も与えてもらえないので、どうしてそんな物みたいに扱って言い争うんだろうと私は疑問に思うんだけど。

ま、どうでもいい。


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