なぜ多分であるか

愛について考えたことがおありだろうか。私は愛は無くてはならないものだとそう信じきっている。「愛ねえ、一瞬のものだよ。」と言う人がいれば「結局は愛よりもお金が重要」と言う人もおり、現実には愛を軽視する人も少なくはない。愛と金を同列に並べるなんて。愛は愛でしかないし、金は金でしかないし…。一瞬で消えてしまうかあるいは終わってしまうものだとそう主張する人は、自分が誰かを愛したことがないから消えたと、終わったと勘違いするのだ。ひとりぼっち部屋の隅で、あるいは深夜のファミレスで、誰もいない終電過ぎの街の中で、自分だけが不幸かもしれないと泣いてしまう経験があるだろうか?自分が人を愛したことなんてあったのだろうか?そもそも自分は愛するに値する存在なのだろうか?私という人間とは?なぜこんなに悲しいのか?さみしいからか?あるいは悔しいからか?誰にも見向きもされないから?されないとしたらなぜ?孤独の中で苦しみながら悲しみながら悔しがりながら涙を何度も流してこらえて、その先に何が待っているかというと特に何も無い。それは愛というものが人を幸福にさせるものであるのと同時に、人を不幸にもさせるものだからではないだろうか。それでもなお人を愛したいと思うのだから、人間という生き物こそが未知とも言える。誰からも愛されなくなった日のことを考えて生きるよりも、愛したいと考えて生きていたい。そう生きるためにはある程度の健康な心、余裕のある暮らしが必要かもしれない。なぜ愛は人を豊かにするのだろう。それは愛がそうさせるのではなくて、さみしいと気付いてしまった自分の心がそうさせるのだ。そのさみしさに一生気付かない人もいれば、30になってようやく気付く人もいる。そのためには孤独になる時間が長く必要になる。泣いたって誰も慰めやしないし努力をしても褒められもしない。神が与えた罰ではないかと思いたくなる日もある。恥を覚えて優しさを知り、そしていつかはあれは愛だったと気づける時が来る。あるいは愛ではなかったかもしれないと。愛は消えないし終わらない。

愛とは残り続けるか、あるいは存在しなかったの二択である。


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