いくつに見える?

ここ最近、「自分っていくつ(実際の年齢より上に見えるのか、相応に見えるのか、それとも下に見えるのか、どれ)だろう?」と思うことが増えた。
ある初対面の27歳の人には「上に感じる」と言われたら、今度は自分のことをもともと知っている人に「下かな」と言われる。多分これは初対面〜3回目くらいまではごまかせる(上に見せられる)というだけで、自分の内面が表に出れば出ていくほど、私は幼く見えるのだと思う。
人の年齢は外見年齢と精神年齢の2つから予測される。精神年齢というのは社会的成熟度を表すもので、自分の社会的能力や経験がものを言う。歳を重なれば自然と養われるものではない、ということである。
私は19歳の時にとある三十路の男と一度会って、奇妙な若々しさに違和感を覚えた。私のその違和感はやはり間違いではなかったのだが、当時笑えた「年齢のわりに幼くみえる人」のことをだんだん笑えなくなってきてしまった。悲しい話である。
今日、何もかも嫌になって、身体はだるいし…でも原稿は日曜になるまでには終わらせたいからレッドブルを買いにコンビニへ出かけた。レジの横にあるラークのたばこがふと視界に入って、「これも」とレジに置いた。その時に「あ〜身分証明書もお願いします」と言われ、3月に25回目の誕生日を控えている私は思わずギョッとした。口角をひくひくと歪まさながら財布の中身を漁った。当然身分証明書は家のお出かけ用のカバンの中にあるのでここには無い。諦めて白状すると綺麗に弾かれてしまった。ああ、社会への反抗心があっさりと無に還ってしまった…たばこを買う、程度のことでは反抗としてすら成り立たないのだということを知る。(いや、身分証明書があればそもそも買えた。)
そのショックだけでここまで日記が書けるのもそれはそれでキモい話である。しかし私からすればニコチンには年齢確認がいるのに、カフェインには年齢確認がいらないのは、現代社会の未成熟さを感じる。まぁ、カフェインはいろんな飲食物に含まれているので、法で規制するのは困難なんでしょうけど…
キモいのはこれだけでもない。私は起きているほとんどの時間はずっと考え事をしている。考え事をしているか、概念と化した友人らと会話をしているか、1人でトークに磨きをあげているか、どれかである。心の中で友達と会話をしているのは統合失調症を疑われても仕方がない。現実と妄想の区別が付いているので私の脳はまだ正常。区別がつかなくなった時が終わりの始まりだろう。私の人生は15歳の夏から終わり続けているが…
近頃は自分の顔にもすっかり自信がなくなってしまい、鏡を見ると不安が増すようになった。特に男の人と会う用事は怖い。すでに自分を知っている人ならいいのだけれども、初対面の相手と会うのはもっと怖い。
「一体誰のための人生?」と自分に問いかける瞬間がある。自分のために決まってるじゃないか。でもそれだけでは足りないのだ。生きるモチベーションが。
人生で一番楽しかったのは14歳の時。14歳の冬から春にかけて。あれより楽しくて幸せだったことが以降無い。死にたいといつも思う。けれども「死にたい」なんて呟く女を誰が可愛いと思う?男だとしてもかっこいいなんて軽微にも思えない。人前にいるときくらいはせめて明るく。明るくしていたい。


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