自分が絶対に正しくてしょうがない人たち

Twitterを見ていると、フォロワーの多い女性が一部の人達から誹謗中傷を受けているというのは決して珍しくない。そういうのは決まって妬み嫉みなんだけれど、中には間違っていない意見もある。
けれどもそれを食らっている人にとって、自分の存在を認められない一部の人達の言葉は暴力と捉える。暴力をする人たちのことも、当然アンチと呼ぶことになる。
彼女らは自分は正しいと信じているし、それに逆らう人たちが間違っているとも思い込んでいる。だから「そんなこと言っても傷つきませんよ」「暇ですね」と盾で反撃をする。

こういう図を見ていて疑問に思うことがある。アンチ(と呼ばれている人)に対する嫌悪感や不快感は少なからずあるはずで、リプライで直接いやなことを言われるのもどちらかといえばやめてほしいと思っているだろうに。
彼女らはアンチの数は減って欲しいのか、直接リプライを送って迷惑さえかけてこなければかまわないのか、正直どうしてほしいのか見ていてわからない時がある。
何故、よりにもよって空中リプライでアンチに対して「傷つきませんよ」「しつこい、いい加減にして」と言ってより多くの人の目につくような言動をするんだろうか。

私はTwitterである女性アカウントをチェックしていた。単純に容姿が可愛いしセンスもよくて参考になると思ったからである。けれどもウォッチし続けているとアンチへの苦言が目立つ。それがまた見ているこっちにとってもストレスを与えるのだ。
誰だって、その人を好きだと言っている人の影には嫌いだと思っている人も隠れているだろう。とは言え、こちらにとっては彼女の敵は見えない敵。攻撃的なことを言われた証拠(スクショやRTなど)をこちらは目にしていないわけだから、はたから見ていると電話口に対してひたすら怒鳴り続けているようにも見えるわけだ。電車で電話を使ってはいけない理由は何だろうか?迷惑だからだ。何故迷惑だというと、うるさいからだ。
そしてどうやらその見えない敵は1人だけじゃないことが連日のツイートからも伺える。そうすると、なんとなく自分がふつふつと抱き始めていた嫌悪感らしきものが、その見えない敵の数の多さにしたがって、「これは嫌悪感として正しい」と思えるようになってくるのだ。
そうなってくると今度は自分も何か言いたくなってくる。いわゆるこれが群集心理ってやつなのかなあ。

結局自分は、この人のTwitterは精神に悪いとみなしてリムーブした。せっかく可愛い自撮りも、Instagramで見かけるとやや嫌悪感を覚えるようにもなってしまった。

さて、私は彼女にとっていわゆる「アンチ」になってしまった。けれどもアンチにさせたのは一体誰なのか?私は彼女がアンチに変な見栄ばかりをはり続けてさえいなければ、今でもフォローし続けて「今日も可愛い顔だな」と好感していたはずなのだと思う。
世の中には、アンチにわざとけんかを売って遊ぶことを好む人もいる。自分はそれを好ましいとは思えない。一体どっちが正しくて間違っているのかまるでわからないからだ。にもかかわらず、遊んでいる側は遊ばれている側を晒し者にしたがる。「こいつが喧嘩を売ってきたのが悪い」と自己正当化する。

今回の件で私は、自分がアンチ(と呼ばれる側)になる可能性はどこにでも転がっているということを学んだ。
そして、敵の多さを周知させることは、より多くの敵を生むことにもなる…ということも学んだ。数の多さは絶対的な説得力がある。

世の中には自分が絶対に正しくてしょうがない人がいる。敵を作ると今度は見方も作る。話し合いで解決できないことって戦争以外にもたくさんあるんだなと思った。
かつては私も「人の気持ちを考えろと言うお前らも私の気持ちを考えろ」と反論していた。けれども自分も周りも快適に暮らせる方法を探すとどうやらそれは間違っている。
私はまだまだ人として未熟ではあるが、アンチから学べることも少なからずあるということだけは学習した。
それにしても「美」にこだわりのある人があんなにも醜い争いを自分から作れることに驚いた。美しい物を愛するからこそ、もっと綺麗にやり過ごせるもんだと思ってたけどそういうもんじゃないらしい。やっぱり容姿や化粧品や服や食器にばかりこだわってる人は内面にコンプレックスを多く抱えているんだろうな。腐ったりんごを必死にコーティングしているだけだ。
私は身も心も綺麗になれるよう、頑張りたい…。(課題はたくさんある)


※私の言う「自分が絶対に正しくてしょうがない人たち」とは、「自分がアンチだとみなした者を(暇人だの低能だのと)あざ笑う人」のことです。精神的に苦痛を感じつらいと必死に訴えている人は含みませんのでどうか誤解しないでください。


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