12月10日

女の子は正義だ。と、思いたい。男の子はなんだろう?まだしっくりくる言葉が見つからないけど、等しく尊い。どちらも。歳を取っても私は女の子と男の子という存在を、「あー愛おしいなあ」と思い続けたいなあなんてことを思う。生意気だなあとかアホだなあとか、中にはサイテーなやつもいるでしょうが。まあ、基本的に誰もが通った道じゃない?そんな偉そうにばかにするなんてこと、できないよ、できません?ずっと忘れたくないと思う。だからこそ女の子だった自分もひっくるめて、この若さ、愚かさも含めて忘れずに否定せずに受け入れたいなんてことをたまに考えます。概念ってやつですか?頭悪いのでそういう難しい単語はようわからんですが……。大人になるとほら、こう、政治や社会問題に口を挟んでしまったりするでしょう?お金とか。性欲とか。だんだんジャンクな食べ物も食べられなくなったりするしね。それって若さじゃない。だから大人になっても40超えても「マック最高!王将最高!えーと、あと二郎最強!」っていう人、いいなあ〜〜って思う。思うよ。若いもの。すごく素敵なことだよ。肝臓が弱ったりするとまあまあショック受けたりするものじゃない?若いからって未来が無限大だとは思わないけど、生命体としての、なんか。数学や歴史が将来なんの役に立つのかわかんないから嫌い!っていうのは、大人になってからそういう嫌いだった学問を楽しめることよりも、私はなんかいいなあって思います。そうそう、嫌いだったんだよ。なんで好きになっちゃったんだろう?って。医学の歴史なんて本読んでなに地味に興奮して人に語っちゃったりしてるんだろう?って。難しい本買っちゃってそれでなんか頭良くなった気になって埃かぶっちゃうとか。そういうのは今もある。昔から変わんない自分っていうのは、とても良いものだ。あの頃は食べられなかったカボチャとかピーマンとか蓮根とか玉ねぎとか、今は食べれちゃう。フルーツは未だ食べられないけど。もちろん、改善しないとダメな部分はあるけどね。大人なんだからきちんとしないと、そこは。もちろん、大人は大人で楽しいし素敵だ。

12月2日

結ばれるその日まで相手の顔を知らず、知らないまま、「あの家の娘さんは美人らしい」なんて話を聞いて、その噂に恋をして、文を出す。恋の歌を贈り、贈られ、想いを育んで、やっと許しが出ると夜に彼女の家に行く。そうして結ばれ、翌朝、彼は彼女の顔を知る。

百人一首という感情

百人一首という感情

あ、この感じ、なんか覚えがある。と思った。
10代の時、本当の名前も知らなければ相手の顔もわからない、ただの文章だけのやり取りで、一方的に好きになってしまっていたことってわりとあった。いわゆるそれが「ネト恋」ってやつなんだけど、今じゃあSNSをきっかけに誰と付き合う誰と結婚するなんていうのは珍しいことではなくなった。Twitterで知り合った人としか付き合ったことがない女の子と以前会ったことがある。ちょっと前ならそれは笑われてしまいがちなことだったけれど、今はなんてことない。時代だね、と納得した。
もしかしたら人(日本人?)って、文面だけのやり取りから恋に発展する方が性に合ってるのかもしれない。とは言っても顔写真をあらかじめ載せていたりする者同士だったりするとまた違ってくるかもしれない。でも、会ったことがないけど写真を見る限り可愛い、だからきっと会ったら写真の通りこの可愛い女の子(かっこいい男の子でもいいけど)がいるんだ!っていう期待を膨らませて会うというのは、やっぱり少しおかしいし変だ。基本的には歌を贈り合ってついに2人が対面していた大昔とやってることはほとんど同じだと思う。すごいな。そう考えると、インターネットでの恋愛って結構粋なのかも。
そういえば最初に付き合った彼氏ってまさにネト恋じゃなかったっけ。記憶は定かじゃないけど、「お互い合って顔が好みだったら付き合おう」みたいなノリで会った気がする。自分は前もって顔写真送ってたかは全然覚えてないけど。(それにしても賭けだよなあ、こんなの)(このエピソードは何度もしてるからこれで終わりにする)

なるほどなるほど。恋っていいなあ。恋なあ。
歳を重ねるごとに色々な経験も増えていき、そうしていくとなんだか慎重になってしまって、迂闊に心を見せられないし同時に相手の心にも近寄らなくなる。ヤケド、したくないからね。なるべく安全でいたいから。

そんなことを考えていたら、一周回ってネト恋をしてみたくなった。でも多分、できないだろうなあ。Twitterは特に、オープンすぎる。Instagramも違うし。
ブログなんか、今更流行らないし。


今気づいたけど12月ってもう2日なんだ。ていうか、「もう」とか言うのやめたいな。「まだ」って言おう。

そういえば、今年は確かな「秋」を感じることができた気がする。
なんだか久しぶりに、もしかしたら初めてかもしれないくらい、秋があった。度重なる台風による影響で残念ながら美しい紅葉には恵まれなかった。けれどそれによって「あれおかしいな、秋といえばもっとも実感できるのが紅葉なのに。」とふと思い、いつも無関心で気付いたころには去ってしまう秋の存在に注目したのかもしれない。
金木犀の香りに鈍感だった私は、大人になってから「金木犀の香りが臭い」というつぶやきを耳にするようになり、「そういえば金木犀ってどんな香りだろう」と興味が湧くようになった。巷ではそういう香りの香水もあるらしい。
だから香りを探したし、見つけた時には「これが金木犀なのか」と思った。実物なんか見てもいないのに存在がわかるって今思うとすごい。そんな香りも知らないうちにあっけなく終わっていた。香水を買えばいつでも確認できるかもしれないけど、でもそれはなんだか違う気がした。
紅葉は葉が散るけれど散ってゆくさまや積もった葉の山を確認できる。あ、そういえばイチョウも見なかった。それどころかなぜか桜は咲いたらしい。
冬が訪れた時にいつも「あれ?秋は?」となっていたけど、今年は「ああ、秋が去ってゆくなあ」だった。いや、今もそう思っている。
いつもあるはずのものが無くて、気付いたら香りは消えてるし。空っぽで空白になった期間。これから冬が来るんだという、寒さに対する不安や恐怖なんかが落ち葉のように積もり積もってゆくのは、冬よまだ来ないでくれお願いしますなんて祈ってしまうほど。
ということは、今は冬じゃないんだ。そうかこれが秋なのか。もしかしたら今まで気付いていなかっただけなのかもしれない。関心が薄かったのは正直ある。自分は紅葉を見ても、紅くなってるなあというくらいしか思わなかった。地面に落ちたイチョウの葉っぱたちも、ただ邪魔だなあとしか。そしてこれのおかげできっと来年は「おっ今年はちゃんと染まってるし落ちてってるな」と注目できるかもしれない。


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