じぶんの救いかた2「熱海へ」

山と海。両方を兼ね揃えたい熱海にでも行けば、自分のくすんだ魂が救われるかもしれない…そう思いながら重い腰を上げて電車に乗った。熱海へは電車で40分ちょっとで着いてしまう。自分にとってはとても身近な土地で、新鮮味のかけらもない(温泉があるということ以外はまったく)退屈な場所である。

1時間近く延々と歩いて、借りたカメラを片手にうろうろとするも、特に撮りたいと思う風景もなく、ただ寒いということと、海も山も退屈すぎるということ以外に感じることはなかった。電線や廃れた建物を趣味にしている人にとってはオアシスだろうけれど、残念ながら私はそのどちらも趣味ではなかった。

のどかで穏やかすぎた。そんなことは行く前からわかることだが、歩きながらそれを強く感じた。のどかさや穏やかさに身を委ねられる人間は基本的には暮らしの中に孤独がない人・金(余裕)がある人だろう。私は日々孤独を感じるし、酒か薬を手放せないくらいには余裕がない。救急車のサイレンに人が注目するくらいにはのどかなのだ。そういう静けさはうんざりするほど毎日朝から晩まで味わっている。

どこを見ても老人かカップルか大学生らしき男たち…1人で歩いてる若い女は、私の視界の限りはいなかった。男を歓迎するスナックやキャバクラやソープの数の方が圧倒的に多いことにもまた驚いた。ここはまちを歩く場所ではなくて、リゾートホテルで優雅にくつろぐ場所なのか…そう納得せざるを得なかった。それは私にとってあまりに価値のないものだった。

私が価値のあるものだと思うものは、若者の群れと、それによって生じる雑音(騒音でも良い)、人がいる公園、映画館や劇場などの文化的施設、活気のある商店街、……

つまりそれは、若者と、人が集う場所なのだろうと。都会、それは都会のことだ。私は食べ物に高い金を払う趣味も、ブランド物をありがたがる趣味も無いが、友人や誰かと時間を過ごすことにはなるべく金は払いたいところである。私は友達が地元に1人もいない。

結局のところ私は1人が退屈なのだ。自分の住んでいる土地が嫌いなのは、退屈で仕方がないからなのだ。1人を楽しむためには、少なくとも私には活気が必要で、動かない景色や風景には何にも魅了されないのである。雲の方がまだ活気があるなんて……。

1人が嫌というわけではない。本当に1人が嫌だったら、1人で熱海へなんか行かないだろう。御殿場のアウトレットにだって行きやしない。でも後者の方が圧倒的に退屈することなく、満足して家に帰ることができるものだ。あそこにはうるさい外国人観光客と、若いカップルしかいない。でもその方が私は安心する。少なくとも誰も歩いてないシャッター街を通るよりは…。

ただ、自分にはのどかさや穏やかさを楽しむ趣味は無いのだということがハッキリとしただけでも、大きな収穫ではあった。心ではないということ。たんに私は、もっと別のものを楽しむ心がきちんとある(都会を歩く、都会で出会う)のだ。それは自分にはまだエネルギーが有り余っていることも証明する。私は元気で、そして活発なのだ。

歩きはしたが、エネルギーは有り余っている。仕方ないのでカラオケにでも寄って、飽きるまで歌って帰ることにする。

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 <追記>

さて今回はモヤモヤとするだけの動きだった。改めて自分は散歩が苦手だと思い知らされました。でもそれを文字にして書くというのは結構楽しいものです。じぶん救いシリーズ、次も書けるように心掛けたいものです。次は何にしましょうね。今ハマってる人物についてでも書きましょうか。そうしましょう。

じぶんの”救い方”について考える

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生きるのがつらい。
生きづらい。
淡々と時間が過ぎているとは思えないほど、私には、時にはスローモーションがかかったように遅く感じたり、時には自分でも処理が仕切れないくらい加速していったりする。
そんな安定感のない時の刻み方をする私の人生、私をそうさせる社会の中で、生きづらさというものを感じるときがある。
それは目に見えるもの・目の前に現れるものもあれば、自分の内部から滲み出て感じるものでもあるし、ふと客観的に見てそう感じるものもある。

私は11月11日から約3日間ほど、盲目になるほどに救いについて考えていた。そのときの救いは”いかに自分の体に傷をつけず自傷をするか”だった。とにかく病状というか、状態が悪かった。
自傷をする理由は人さまざまではあると思うが、私の場合はある意味救済だった。「今この頭がおかしくなりそうなくらいにつらい状態から解放されるため」の救済。
そこで私が思いついた画期的な方法が瀉血だった。血を抜くことである。
早速Amazonで私は人体用ではないよくわからない注射器を注文した。刺すことはできるけど、片手で一体どうやって血を抜くんだ?手の甲で試すも抜けず。足の甲で試すも抜けず。残ったのは内出血した私の手と足の甲と、使い物にならなかった(いや使いこなすことができなかった)おもちゃのような注射器。そして、使うことのない余った注射器たち。
わかったことは「看護師・医師はすごい」ということだった。

それから数日して自傷行為以外の救いが必要なんじゃないのか?と思い始める。
つらい→その瞬間を忘れるたい→自傷する→しばらくするとまたつらみが襲ってくる→つらいからまた自傷する…
負のループに陥ってしまう。これではいけない。

「…山、それか海が見たい……」

ふと思って、翌日か翌々日後、犬と母と一緒にサービスエリアのドッグランへ行った。サービスエリアの北のほうには山々が並んでいて、その日は曇りだったけれど、空気が冷たくておいしかった。
着くまでの間、車の中ではあまり機嫌が良くなかったけれど、外に出るとまず寒さに震えて「つらい」とか思ってる余裕がなくなった。つらいことよりも寒いことの方が精神エネルギーをはるかに使わないから、つらい気持ちが消えると急に余裕が出た。おかげで私は母にコーヒーを奢ることができた。
犬たちが戯れている姿、霧のおかげでいつもより綺麗に見える山たち。気がつくと普通に喋ることができるくらいには元気が出ていた。
元気が出たので、帰りには御殿場プレミアムアウトレットへ寄った。大自然もいいし、人が適度にいる場所へ行くというのも、以外と心に良い。(誰もいない商店街は憂鬱になります)

そこで私は健康的に自分を救い、闇を抱える邪悪な自分を葬ろうと考えた。
それによって行われたのが、先日の”花を贈る”という行為であった。
花束を店員に綺麗にラッピングしてもらって、それを受け取ったとき、自分の心のどこかが軽くなった気がした。
でも邪悪な自分はポッと消えてくれるわけじゃない。
翌朝になると私はいつも通り機嫌が悪くて、目の前にうつる花束を見て八つ当たりに外に投げ捨ててやろうか?あるいは燃やしてやろうか?などと考えた。
考えたけど、花びらを触ったら、しっとり柔らかかった。造花とは全然違う、生きた花の感触だった。「花が生きている」と思った瞬間、捨てるとか燃やすとか自分にできっこない…ラッピングを外して水を入れた花瓶がわりの入れ物に花を活けた。
花の寿命は短くで、ダリアはもう外側からどんどん枯れてきていた。水を変える程度ではもうダメそうだと思い、隣の小さい花がたくさんついてるものと一緒にドライフラワーにしようと考え、逆さに吊るした。せめて綺麗なままで枯れておくれと、人間のエゴって本当につくづくどうしようもないよなぁと思いながらも結んだ。

そういう過程の中で自分の邪悪な部分、邪悪な自分が亡くなっていった。そう願いたい。

じぶんの救い方とは、自分の中にある邪悪な負の自分を葬って、綺麗なものを綺麗と思える心を育てることなのだ。
上手に笑える心、ご飯を食べて美味しいと感じる心、そういった今まで死んでいた心たちを育てる行為なのだと考えます。

生きることがつらい。生きているのがつらい。そう思うのは、そう思わせている自分かもしれない。

そんなわけで今後は私の私による「じぶんの救い方」について書いていこうと思います。
漫画とか、イラストとか、文章とか、写真とか、私は幸い何かと多趣味なほうなので色々なやり方でこのブログを改めて活用していこうと思います。

障害者年金をもらいながらわずかな原稿料をもらって、幸い実家で暮らしているおかげでお金で苦しい思いをすることはあまりありません。だからお金のためにつらいことを描くくらいなら、お金に何もならなくても自分のことを救ってやれることを書きたい。ずーっと今月それを考えてました。趣味でいいんですよ。趣味の人に戻ってもいいんじゃないかと思います。

いつか報われる時が来るなら、今がこんなでもいいだろう。それくらいの余裕を持って人生を過ごしたいです。

生きづらさ

御殿場プレミアウトレットへ行った。
欲しいシャツを見つけた。7千円。買おうか迷ったが、買ったら母は嫌な気持ちになるだろう。(私は節約して、服を買うのだって惜しんでいるのに、どうしてお前は服を…)
散々悩んだ挙句買うのはやめた。ストレスになるからだ。
ワインショップが前にできた。最近、ここへ来ると必ずこのワインショップへ来る。
店員に好みの味を伝えながら、これどうですかこっちはなどやりとりをいくつかして、2本買った。2本で3800円。定価で買ったら5000円近くはいっていただろうか。
お酒を買うときは母は何も言わない。ストレスなく買い物を済ませた。
今も飲んでいる。ニュージーランドのSILENI。
お酒を飲んで酔っている時が幸せ。
家にいると、実家にいると、自分は一生このままなんだろうかと思う。
部屋を借りたいと母に先日訴えたけど、「無理でしょ、今までなんども失敗してきたでしょ」と言われてしまい、いや、そうなんだけど、だからどうにかしたいんだ…。
自分がどうして生きづらいのかをブログに書き続けて、それを読み直して己と向き合ってみたい。
だからここでは無駄な告知や宣伝はしないことにする。
私は恋愛も婚活も興味がない。土俵にそもそも立てない。私は薬を飲んでやっと真人間でいられる動物。それでも疲労がたまると精神が不安定になって言動も極端になるし激しくなる。こんな自分が生きてて、この先生きてて、誰が得をする、私ですら得をしないのに、誰が…
腕を切る面倒さを知ってしまった今はそういう類のものができない。血を抜いたら?そう思っておもちゃみたいな注射器を買った。全然血は抜けなかった。
貧血のふりをして採血でもしてもらおうか。お金が、かかる…
この生きづらさから解放までとはいかなくても、少しでも救いとなってくれるものを1つでも多く見つけられたら。そう思う。
デパスを鼻から吸うでも、吐くまで酒を飲むでも、壁に頭を打ち続けるでもいいんだけれど。

数ある救いの方法の中から、先日は一つ選んだ。「自分に花を贈ること」。

漫画を描きました。次回の記事で載せていきます。


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